家を建てるということは、居場所を決めることに少し似ている
暮らしやすい家、
という言葉を聞くたびに、少しだけ立ち止まってしまう。
もちろん、意味はわかる。
家事動線がよくて、
収納が十分にあって、
夏は暑すぎず冬は寒すぎない。
家族が自然と顔を合わせられて、
片づけやすくて、
掃除もしやすい
たぶんそういうことだろうと思う。
でも、ときどき思う。
暮らしやすさというのは、本当にそれだけで決まるのだろうか。
朝、流しに残ったコップや食器を洗って、
洗濯機を回して、
ぐずぐずな子どもの支度をして、
自分の身支度はテキトーに家を出る。
夕方には買い物袋を提げて帰ってきて、
冷蔵庫を開けて、
米を研いで、
洗濯物を畳んだり
あれこれ家のことをして子供たちと遊んでいれば
気づけば一日が終わっている。
生活はつねに具体的だ。
手は動いているし、やることもある。
ちゃんと今日を終わらせるために、体は勝手に動いていく。
だけど、ふとした瞬間にその一連の動きが全部、
自分のいないところで進んでいるように感じることがある。
食卓は整っている。
洗濯物も畳まれている。
一見すると、ちゃんと暮らしている家だ。
それなのに、その「ちゃんと」の中に、自分だけがいないような気がする日がある。
生活のための抜け殻、という言葉が浮かぶ。
家のことなのか、
自分のことなのか、よくわからないまま。
家は本来、帰る場所のはずだと思う。
気を抜ける場所で、休める場所で、
誰にも見張られずに息ができる場所。
けれど現実には、家が「生活を破綻させないための装置」になることがある。
朝を遅らせないための洗面台。
献立を回すためのキッチン。
物をしまいこむための収納。
家事を詰まらせないための動線。
どれも必要だ。
必要だし、大切だ。
でも、それだけでは、ときどき足りない。
家は整っているのに、暮らしが整わない。
部屋は片づいているのに、気持ちは散らかったまま。
見た目はきれいなのに、どこにも居場所がない気がする。
そんなことが、たしかにある。
注文住宅の話をするとき、
自由設計とか性能とか、間取りの工夫とか、そういう言葉が並ぶ。
それらはもちろん大事だ。
暮らしを助けてくれるし、毎日を確実にラクにしてくれる。
寒くないこと。暑すぎないこと。洗濯しやすいこと。片づけやすいこと。
そういう小さな助けは、想像以上に大きい。
けれど、家づくりはそれだけでは終わらないのだと思う。
どんなに上手に設計された家でも、そこに暮らす人の気持ちまで図面に描くことはできない。
何に疲れるのか。
どんな朝がつらいのか。
どういう時間にほっとするのか。
一人になりたいのか、誰かの気配がほしいのか。
家に求めているものは、案外、間取りの言葉だけでは表せない。
だから家づくりの最初に必要なのは、理想の外観を探すことでも、最新の設備を並べることでもなくて、
今の暮らしの中で、どこに息苦しさがあるのかを見つめることなのかもしれない。
料理が嫌いなのではなく、狭いキッチンで体をよけながら立つのがしんどいのかもしれない。
片づけが苦手なのではなく、しまう場所が決まっていないだけかもしれない。
家族といるのが嫌なのではなく、一人になれる場所がないだけかもしれない。
暮らしがうまくいかない理由を、自分の性格のせいにしてしまうことは多い。
でも本当は、家のつくりが少し合っていないだけ、ということもある。
家は魔法じゃない。
新しい家にしたからといって、悩みが全部なくなるわけではないし、人生が急に別のものになるわけでもない。
それでも、毎日のつまずきを少し減らすことはできる。
寒さに耐えなくていい。
片づかないことに毎日うんざりしなくていい。
朝の支度で声を張り上げてなくていい。
帰ってきて、どっと疲れる家ではなく、少しだけ力を抜ける家にすることはできる。
それは派手な変化ではないけれど、暮らしにとってはとても大きい。
抜け殻みたいに今日を回すだけだった毎日の中に、少しずつ自分の感覚が戻ってくる。
ちゃんと座ってお茶を飲める。
窓から入る光を、ただきれいだと思える。
家族が寝たあとに、ようやく深く息をつける。
暮らしは、たぶんそういう小さな実感の積み重ねでできている。
生活のための抜け殻みたいだった場所が、少しずつ「帰る場所」に変わっていく。
家づくりは、そういう変化のためにあるのかもしれない。
もし今、
家のことを考えてはいるけれど、何から始めればいいのかわからない。
理想の家というより、まず今の暮らしのしんどさをどうにかしたい。
そんな気持ちが少しでもあるなら、そこから話してみてもいいのだと思います。
間取りの前に、今の暮らしの話を。
見た目の前に、毎日のことを。
私たちも、そんなふうに家づくりをご一緒できたらと思っています。
